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この「光市母子殺人事件」について、ずっと語っているが、今思っていることは・・・
加害者が反省しているかしてないかは、刑罰を決めるときに考慮しないほうがいいのでは、ということだ。
以下、その理由を述べる。
前回の記事にも書いたが・・・
この加害者元少年側は、1審2審では、殺意も計画性も認めていたのに、
差し戻し控訴審で、殺意も計画性も認めない供述に変わったのは、「死刑を免れるための嘘」「被害者側を愚弄している」「反省してない」ということになった。
が、それでも加害者側は「差し戻し控訴審での言い分が真実だ」という。
じゃあ、なぜ1審2審では殺意と計画性を認めたのか?
もしかしたら、反省しているということを示すためだったとしたら・・・ 1審2審では、本当に反省していなかった、ということにもなる・・・
で、差し戻し審で、あわてて、真実を述べた、ということになるのか?
が、それは「死刑になりそうだったから、真実を述べた」としたら、これも「反省していない」ということになるかもしれない。
そもそも「反省しているのか、してないのか」本人しか分からないこと。
いくらでも「反省しているふり」はできる。 刑罰の軽減をねらって、裁判官への心象をよくするために、更生の可能性を示すために、しているのかもしれない。
もちろん、少しぐらいは反省はしているのかもしれない。
が、どの程度、というのは分からない。
だいたい、裁判で、加害者側は「いかに刑罰を軽くしてもらうか」を狙い、弁護士は戦略を立て、争っているのである。
そこに「加害者は反省している」なんていえないだろう。
いや、言えなくていいのである。
だって、裁判では加害者は「いかに刑罰を軽くしてもらうか、つまり自分の利益のために、被害者側と争っている」・・・それが裁判というものなのだから。
裁判中は「反省、謝罪しているフリをし、刑罰の軽減をはかる」ことも、大いにありうるし、
「加害者にとっての利益=刑罰の軽減」を目的に、「謝罪相手となる被害者側と争う裁判」で、そもそも「純粋な反省」ができるはずがない。
本当の謝罪や反省ができるとしたら、刑が確定した後だろう。
だから、刑罰を決めるのに「反省しているか、していないか」「更生の可能性があるのか、ないのか」というのを考慮するのがおかしい。
更生の可能性ならば、どんな重罪を犯しても、可能性はあるかもしれない。
あやふやな、そういうものを「可能性がある、ない」と決められない。
純粋に「犯した罪」の重さだけをはかり、刑罰を科すほうがいいのでは、と思う。
刑が確定する前の「被害者側への謝罪、反省」は、不純である、パフォーマンス、弁護士の入れ知恵、反省しているフリをしている、と捉えられるだろう。
「刑を軽くしてもらうため」という目的が全くない、とは言えないからだ。
本村さんは、今までに書かれた加害者からの「謝罪の手紙」を開封していないという。
が、刑が確定した後に書かれた手紙は読むつもりだ、とおっしゃっている。
今までの「加害者元少年の手紙」は、本人の純粋な気持ちから書いた、とは思えないのは、当然のことである。
だって、「争っている最中」なのである。
「純粋に謝罪、反省」などできるはずがない。受け取るほうも、そう思う。
でも、刑が確定した後の「謝罪、反省」は、刑を軽くしてもらうためのパフォーマンスでもないし、弁護士の入れ知恵もない、純粋なものだろう、と受け取れる。
刑罰を決めるのに、あやふやな要素「反省しているか、してないか」「更生の可能性はあるのか、ないのか」というのは、一切考慮しないほうがいいのでは、と思う。
じゃないと、弁護士の戦術で、「光市母子殺人事件」の裁判のように、「加害者の供述が変わるおかしなこと」になるのである。
弁護士が戦術を駆使し、真実を歪める結果となる。それに、被害者側も、加害者も翻弄されることになるのだ・・・
裁判では「真実を出来るだけ明らかにすること」が大事ならば、「反省しているか、どうか」などという本人にしか分からないようなことを、刑罰を決める考慮要素にしてはいけないと思う。
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また「更生」についても
「更生できるか、できないか」は、やはり、あいまいで、分からない。誰も答えを出せない。
重大な凶悪犯罪を犯した成人だって更生の可能性はあるだろう。少年だけ「更生できる」として、刑罰を軽くするのはおかしい。
つまり、そういう、あいまいで、わからないものを、刑罰を決めるときに考慮するのはおかしい。
刑罰は「純粋に犯した罪の重さ」のみで、決めて欲しい。
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