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光市母子殺人事件で、加害者元少年に「死刑判決」が出てから
本村さんの主張、意見、考えばかりがマスメディアにとりあげられ、被害者寄りになっている、とか
「加害者元少年の境遇」のことで、加害者元少年のことも考えるべき、とか
被害者の主張が通り、死刑=正義という名のもとに人殺しにさせてしまった判決である、とか・・・
たまに、そんな意見を目にするが・・・
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「マスメディアは、被害者本村さんのことばかり取り上げないで、もっと加害者元少年のことを取り上げて」といっても、加害者は少年法で守られ、出せる情報は制限があり、マスメディアは取り上げづらいだろう。取り上げれば取り上げたで、少年法に反する、と言われるだろう。
それに、ちょっと前の刑事裁判では、被害者側は無視され、裁判に参加できず、それどころか傍聴もできないこともあったそうである
(話題性のある事件では傍聴券求めて人が殺到するので、その場合、被害者側は傍聴券を手に出来なかった、という)
被害者の遺影も持ち込み禁止だった。
それが、本村さんはじめ、犯罪被害者の人々が声を上げ、それをマスメディアが取り上げるようになり、ようやく、被害者側の権利がほんの少しだが、認められるようになった。
今は、裁判の傍聴も被害者遺族は優先されるし、遺影の持ち込みも可能、裁判で意見も言えるようになった。被害者側が、参加できるようになった。
じゃあ、なぜ、今まで、被害者遺族は裁判に参加できなかったのかm遺影の持ち込みも禁止だったのか・・・
それは、裁判官が被害者に同情しないように、判決に影響を与えるといけないから、加害者被告が動揺するから・・・
とまあ、加害者側のことばかり考えられ、被害者遺族のことは全く無視、という不公平なシステムだったようである。
ほか、被害者の権利がなおざりにされていることは、前日記のほうでも語った。(保障のことなど)
マスメディアは、被害者寄りではなく、当然の応援をしたまでだろう。
それに・・・
本村さんの本「天国からのラブレター」は、割と批判されている。
たしかに・・・
つきあっていた頃の妻・弥生さんの手紙や日記を手直しせずに載せているようで、人の悪口らしきものもあり、本村さんの学生時代を知っている周囲の人たちは、誰のことだか分かるだろうし、「これを読んだら傷つくだろう人」もいるだろう・・・弥生さんだって、まさか人目にさらされるとは思ってないから、正直に「人の悪口らしきもの」も書いてしまった・・・
そんな私的で、人目にさらすのはいかがなものか的なものが、本となり出版されてしまった。
しかし、それも、本村さんは世間に訴えたいがため、この事件を風化させたくない思いとの思いもあっただろう。
出版社や編集者の口車にのってしまった可能性もある。
本村さんは、こうして訴え続けたのだ。
そして、今までの判例を覆し、少年に死刑が下った。
少年への死刑は、社会正義に反する、という人もいるが、
少年ならば何をやっても許される(無期懲役とはそういうことだ。とくに少年の場合は短期刑である)という考えのほうが社会正義に反する気がする。
しかし、
この事件の報道で、18歳未満は死刑にならない、ということが知れ渡っただろう。
逆に恐ろしい。
18歳未満の「人を殺してみたい少年」は、タカをくくるだろう。
そして、実行するかもしれない。
18歳未満の少年であろうが、人を意味もなく殺したり、欲望のために殺したら、成人と同じ裁きであってほしい。
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子供に「なせ人を殺してはいけないのか?」と問われたら、「お互いの安全を保障するために、法律で決まっているから」でいいだろう。
「じゃあ、法律がなければ殺してもいいのか?」と問われたら、「無法地帯であれば仕方ないかもしれない。どうしても殺したいのなら、内戦紛争のある地域など、無法地帯に行けばいい」と答えるだろう。
「その代わり、あなたも殺される可能性は高いのである」と。
殺人は絶対に許されない、やってはいけない犯罪である、ということを社会は示さないといけない。
そのための死刑制度である。
子供や少年に、タカをくくらせてはいけないと思う。
おそらく、この本村さん母子を殺害した元少年もタカをくくっていた。だから、友人に「7年でひょっこり娑婆にもどる」「誰も裁けない」というようなことを手紙に書いていた。
つまり人を殺しても、少年であれば許されると思っていたのだろう。
いやあ、でも、この手紙があったからこそ、「反省していない」ということで、差し戻し控訴審になったのだろう。
もし、この「反省をしてない手紙」がなかったら・・・たぶん「無期懲役」ですんだのだろう。
なので「反省しているか、してないか」で判断するのは危険である、と、つくづく思った。
それに、大いに公平性に欠ける。
反省していると裁判官に思わせれば、刑が軽くなり
反省してないと思われれば、刑は重くなる・・・
こんな「反省しているか、というあいまいで、判断基準がはっきりしてないことで、決まってしまうなんて・・・
ある被告は死刑
ある被告は無期懲役ですんでしまう。
これは、おかしい。
これこそ社会正義に反するのでは、と思う。
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本村さん母子を殺した元少年の劣悪な境遇を考慮するべき、という考えに対して・・・
どんな不幸な環境で育とうと殺人はいけない、不幸な環境にいる人は情状酌量で刑が軽くなる、というのはおかしい。
つまり不幸な環境にいれば、殺人を犯しても情状酌量の余地あり=仕方ない、と認めていることでもある。
不幸な環境にいれば殺人犯しても仕方ない、という考えは、逆に
「不幸な環境にいる人」を差別していることになる。
それは、イコール「不幸な環境にいる人は犯罪を犯しやすい」と考えていることになるからだ。
もちろん、社会が、そういう不幸な境遇の少年をどうするか、考えないといけないだろうが。
けど、「不幸な環境」が情状酌量の要素になってしまっては、犯罪犯しても「家庭が、学校が、社会が、周囲のものが悪い」となり、ほかへ責任転嫁してしまいがち。本人は反省しづらくなるだろう。
なので、「環境が悪かったから」と、殺人というとりかえしのつかない重い犯罪に対し、情状酌量するのはいかがなものか、と思ってしまうのだ。
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更生について
まず、殺人犯に更生はかなり難しいのでは、と思ってしまう。
それは本人が反省したから、というのと別の問題で、殺人を犯した者を、簡単に受け入れるところがあるか?ということで。
仕事もなかなか見つからないだろう。
話題になった事件で、成人であれば名前、顔は公開されるし、全国に知れ渡る。少年であっても、今はネットで、名前や顔写真が出回る。
じゃあ、更生した者を受け入れない社会、受け入れない人が悪いのか?というと・・・やはり、殺人を犯した者に限っては、仕方ないのでは、と思う。
それだけのことをしたのだ。
そして結局、更生したとして、刑を終えても、行き場がなく、再犯につながるかもしれない。
殺人犯に対しては、受け入れがたく、ほんとうに更生は難しいような気がする。
「更生できるか、できないか」を判決の考慮要素にするのなら・・・
受け入れてくれる家族がいなければ、さらに更生は難しいはずだ。
すると受け入れてくれる家族がいない「不幸な環境にいる人」は、更生しづらい、ということになる。
不幸な環境にいる人は更生が難しい、なのに、情状酌量で刑は軽くなるのはおかしい。矛盾している。
以上の理由から、やはり、刑罰を決めるとき、「反省しているか?更生できるか?」というあやふやなもので考慮してはいけないと思う。
また「不幸な環境」というのも同じく、これをもってくると「社会復帰、更生しづらい環境にある=更生は難しい」ということになる。
それに「不幸な環境のせい」にすると、責任転嫁してしまい、本当に「反省できるのか」ということにもなる。
前日記にも同じ事をかいているが
犯した罪の重さのみで、刑罰を決めないと不公平である。不公平であやふやな基準に基づいた判決こそ、社会正義に反するんじゃないのか?と思ってしまうんである。
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時効について
殺人事件の時効は15年から25年になったが・・・それでも時効は、殺人事件に限り、なしにしてほしい。
25年逃げ回ればOK、と社会が言っているようなものである。
25年(ついこの間まで15年)逃げ回る、ということは、25年服役していた、とも言える、なんていう「?」な意見を耳にするが・・・
つまり殺人は25年服役でOK、許される、と言っているようなもの。
人の命は「25年の服役ですんでしまう価値」と言っているようなもの。
25年逃げ回る、ということは、「反省」とは無縁の25年ということだが、OKなのか?
刑法って、その国が人の命をどう捉えているか、表れるものかもしれない。
殺人事件の時効制度も、社会正義に反するのでは、と思った。
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